空を飛び続ける白は、そのまま俺の前を通過して、重力の法則どおり地面に向かっていく。
その様子をしばらく見て、空を飛ぶ白い物体が何なのか、理解できた。「……シロか」
その一言とともに、極限まで押しとどめられていた時間が正確に動き始める。
俺の目の前を通過し、たった今地面に降り立とうとしている存在――シロが、着地と同時に振り向いた。「どうしたの?」
むしろそれはこっちが聞きたい。何でいきなり人の会話を遮ってこっちにくるんだ。
「いや、それは……飛び移りたかったから?」
「何処に?」
「向こうの塀」
そう呟くと、白猫はもう一回跳んで目標らしき塀の上にたどり着いた。
どうにも腑に落ちないが、それ以上話すつもりは無いらしく、俺を無視してけ伸びを始める。
仕方ないので、視線を彼女に戻し、続けましょうかと呟いた。
彼女は手入れに困りそうな長髪を弄りながら、そうしましょうと呟く。「で、何だったかしら?」
そのままの状態で、初めに出てきた言葉はこの一言。
数秒前の質問をいとも簡単に忘れてくれるとは、色々と悲しい気分になる。
仕方ないので、ぶっきらぼうにもう一度質問をした。「だから――――」
言葉に詰まる。
別に、何か悪いことが起こったわけでもない。
ただ、何故か注目されてる気がして、喋ることが一瞬ためらわれた。
彼女もシロも、変わった様子はない。何の変化があるわけでもない。「だか、ら……」
なのに、空気だけが変わっているような気がして。
「名前、だよ」
この一言を呟くのに、大量の時間を要した。
「……教えてなかったかしら?」
もう、さっきの緊張は何処にも無い。まだ数えるほどしか会っていないが、いつも通りの彼女がそこにいる。
シロも、何でもないように寝っころがっていた。だから、俺は自信を持って頷く。
そんな俺の反応が面白かったのか、しばらく無反応でこちらを見ていたが、
いつも組んでいる両手を突然崩し、片方の手を顎に持ってくる。「……」
そして、考える人っぽいポーズを続けながらしばらく沈黙して、
「野上唯」
「はい?」
「いや、だから、のがみゆい」
別に強調しなくても分かってる。
「じゃあ聞き返さないでもらえる?」
「は、はあ……」
何故か俺が悪い、みたいな空気になってたので、仕方なく謝る。
すると、彼女――野上は、珍しく上機嫌で、「分かればよろしい」と言いながら頷く。
いつの間にか、彼女の腕はいつも通りに組まれていた。「……じゃあ、もう質問は無いかしら?」
そう言われると、何かを忘れているような気がする。
「いや……多分、無いです」
しかし、思い出せないので話さないことにした。
「なら、そろそろ帰らせてもらうわね」
そう言うと、彼女が俺から背を向ける。
そして、数歩歩いていくと立ち止まり、いつも通り一瞬で消え去……「あ、忘れてた」
らなかった。彼女は失念だった、と言わんばかりの顔をしてこちらを振り向いている。
何があったのだろうか。「貴方、一般人に武器を使ったでしょ?」
それでこっちも思い出した。今日の大金争奪戦、洋一との戦い。
次々と当たる攻撃。ノーダメージで立ち上がる洋一。さすがにアレは引いた。
あそこで前野さんが来なかったら少し泣き出してたかもしれない。「何で、奴はノーダメージだったんだ……ですか?」
タメ口を使ったら、一瞬目つきが鋭くなった。何か俺、この人に恐怖を植え付けられてる気がする。
「簡単な話で言うならば、あの武器、一般人相手に使ったらどうなった?」
「もの凄い俺最強だった」
「頭の悪い発言をどうもありがとう」
結構落ち込んだ。しかし、野上は俺を無視して喋り始めるので仕方なく耳を傾ける。
取りあえずわずか数十秒で説明されたことは、以下のことだった。シロより早くて正直助かった。現実世界で武器を使ってしまえば辺りの人間には到底太刀打ちできない。
そんな訳で、その力を悪用するバカが現れ始める。
そうさせないため、武器の特殊効果をこちらで使うと効果――要するに、ダメージがゼロになる。
なので、一般人は何をされてもダメージを受けない。「で、この説明は普通、パートナー……要するに、貴方ならシロに受けているはずなんだけど」
シロを見ると、俺たちから顔を逸らして何処か知らない場所を見ていた。
心なしか……いや、あからさまに誤魔化そうとしているのが分かった。「おい、シロ。今の話を聞いていたか」
返事は無い。
「蹴っ飛ばすわよ?」
振り向く。
どうやらシロも、野上は怖いらしい。
一発で振り向いた上に、素直に謝り始めた。「ご、ごめんなさい忘れてましただから許してくださいもうしません」
息もつかずにわずか二秒で謝り続ける。
「却下」
しかし、そんな努力も虚しく、彼女がそう言い放つと、白い物体が空の彼方へ吹っ飛んでいった。
惨劇を起こした。……要するにシロを蹴っ飛ばした張本人は、涼しい顔をしている。
さすがにシロが可哀想だとは思ったが、ある意味自業自得なので話を続けることにした。「で、以上ですか?」
「そうね」
肩にかかった髪を忌々しそうに払いながら相槌を打ってくる。
そんなに邪魔なら切れば良いのに、と思いながら質問する。「そう言えば、何でシロに触れるんですか?」
自身の制服を整えながら、「関係者だから」と呟く。
その『関係者』について詳しく教えて欲しいわけだが、聞ける雰囲気じゃないのでやめておく。
彼女は、しばらく制服を引っ張ったりして整えていたが、満足すると再び腕を組む。「さて、今度こそお別れかしらね?」
突発的に吹く風が彼女の髪を恐れ多そうに揺らしながら、通り過ぎていく。
彼女の透き通るような黒が、少し揺れる。いつの間にか強くなっていた赤い光が、彼女の横顔を照らす。
こう言うのも何だと思うが、まさに『別れに相応しい場面』だった。「ああ」
頷くと、彼女が口元だけで微笑む。
「それじゃ、またいつか」
「俺としては、これっきりにしてほしいものだけどな」
む、と彼女は面食らった顔をするが、すぐに戻る。
「残念だけど、また暇なときに来るわよ」
そして、今度は挑発的な笑みを残し、その場から消え去った。
六月初旬、第一週目の日曜日。どたばたしながらも、その日がやっとスッキリ終わってくれた。「……さて、シロは自分で帰ってくるだろうから、俺も帰ろう」
威勢良く自転車を起こして乗り込む。
後輪のホイールが真っ二つになっているのに気付いたのは、
バランスが取れずに思いっきり転んでから、数十秒考えてからのことだった。
第二十四話