俺が振りぬいたカッターは、相手の頸動脈を綺麗に切り裂いていた。
傷口から赤いモノがびしゃりと噴き出して、俺の視界を覆う。
とっさに顔を逸らしはしたが、多少かかったらしい。
反射的な反応で視界が滲んできた。逸らした顔を向きなおすと、スローモーションで男が崩れ落ちていく場面に遭遇した。
それは、一瞬のことだけど、それは一生忘れられる事の無い光景。
その光景は、目の奥に焼きついて、強制的に何度もリピートさせられる。「あ……」
ガチャリ、と何かが落ちる音がする。
下を見れば、さっきまで握り締めていたカッターだった。
所々刃を赤く染めたカッターは、今や完全に輝きを失っている。「なあ、シロ。……お前はあんな事を言ってたけどさ、」
カッターから目線を話さぬまま、呟く。
俺の後ろに居るらしいシロは、それに対してうん、とだけ相槌を打つ。「そうだったとしても、やっちゃいけない事だったんだよな」
シロは、答えることが出来なくて、ただ黙ってしまう。
俺はと言えば、もう枷は外れてしまった。
だから、ただひたすらに、涙で視界を歪めることしか出来ないし、
全身の力は抜け切って、その涙を抑えることすら出来なかった。「ケイ、ゴメン」
膝をついて何度もしゃくり上げる。
目の前では、うつ伏せに横たわった男が一人、
自分の存在を誇張するかのように、首から血を噴き出し続けていた。足元へじわりと、赤が迫ってくる。
迫る赤は、静かに俺の膝を濡らした。「ケイ。……ゴメン」
二度目の謝罪。
シロも、落ち込ませてしまったことを責任に感じているのかもしれない。
声のトーンは、さっきより更に落ちていた。「でもね、ケイ。君のやった事は間違ってない」
間違いだらけじゃないか、言おうとして言葉が出せなかった。
しばらくは、泣いているせいで喋れないんだろう。「この後、元の世界に戻ったら、このことを忘れるんだよ」
言っていることが分からなかった。
でも、シロのその言葉には、不思議と力が宿っているのかもしれない。
急に落ち着いた気がした。「君は、思いつめすぎてはいけない。あくまでも、普通の人間なんだよ」
「人殺し……なのにか?」
振り向いて、シロに問う。
シロは、一直線に俺を見つめていた。「彼は、死んでないよ?」
それは、さっき聞いた。
確かに聞いたさ、攻撃を避け続けているときに。「でも、それがどうした? 行為としては、殺したんだよ」
シロは、静かに首を振った。
それが大きな間違いだと言うかのように。いや、間違いだと断言している。
「君は、普通の人間だよ。
この罪をこれからずっと背負っていくつもりかもしれないけど、そうした場合、現実の世界で君は本当に人を殺す。
経験として捉えてしまった人間は、もう殺人鬼にしかなれない。だから、このことはあくまでも、忘れるんだよ。」シロの言葉は、半分以上捉え切れなかった。
でも、俺がこのまま『人を殺した事がある』と考えていれば、
『今更もう一人殺しても関係ない』と考えてしまうと言っているのだと解釈できた。「悲しい、けどそうなのかもしれないな」
立ち上がる。
そして、安堵した顔のシロの顔を見据える。「でも、俺は忘れないさ」
俺の目線を一身に受けているシロは、静かに近づいて、肩に乗ってきた。
「僕は怒らないよ。君は、さっきとは違った意味で使ってるのが分かるから」
シロは笑いながら俺の顔を覗きこんでくる。
それに俺もつられて、思わず笑う。
そして、周りを見た。「さて、いつになったら帰られるんだ?」
「ん、もうすぐだよ?」
シロがそう言った瞬間。
ドンピシャのタイミングで地面に裂け目が……ってこれは。「うおっ!?」
咄嗟に横へ飛ぶ。
俺がさっきまで居た場所は、綺麗に真っ二つになっていた。
もし俺があそこに居たのなら、一生落ち続けていったのかもしれない。だから、安堵した。
「って、何で落ちないの?」
「待て、落ちないとならないのか」
シロを見た。
どうやら真面目に言ってるらしい。
ちょっと待て、本当に落ちるのか。「随分ためらってるね」
シロが肩から降りる。
何の予兆かは知らないが、もの凄い嫌な予感がする。「そりゃあ、落ちろって言われてもなぁっ!?」
シロの方を振り向いた瞬間、腹にシロが突っ込んできた。
その勢いの所為で、後ろによろめく。
ってか、このまま後ろに下がったら……。『って、もう遅いか』
気付いたときには、身体がカクンと落ちていて、
そのまま、遥か下に身体が吸い込まれていった。
気付いたら、真っ暗な世界にいて、落下運動は止まっていた。
しばらくして、さっきと同じように、俺の目の前から光が漏れ出してきた。
光が視界全体に行き届くと、まさしくそこはさっきの一本道。
千葉なる男と俺が、対峙した場所だった。「ここは……っと」
転びそうになる体を何とか持ち直す。
そう言えば、かわされて後ろから一発食らったんだっけか。
思い出しながら後ろを振り向くと、「終わっちまったか」
とか何とか、自分の身体を見渡している人がいた。
この人こそさっき俺と対峙した千葉なる人に間違いない。
それを見て、安堵のため息をついた。「ん、おお、お前か!」
俺の存在に気付いて、大げさに驚く。
むしろ、俺としてはさっきあんな事があったのに、
もうこんな和やかな雰囲気になってることに驚きだ。「お疲れ! 大変だったろ?」
「え、ええ……まあ」
両手で肩を何度も叩いてくるその人を脇目にシロを見る。
いつの間にかブロック塀に飛び移っているシロは、その様子を面白そうに見ていた。チクショー、他人事だと思いやがって。
「じゃあ、これからも頑張ってくれよ! ……あー、何て言うんだ?」
「あ、安藤です」
「そうかそうか! じゃあ頑張れよ! 安藤!」
やけにハイテンションだな、と思い苦笑した。
戦ってるときは、あんな様子まったく無かったのに。
しばらく肩を叩かれる。
それが収まると、やっと俺から離れた。「……さて、帰るか」
言いながら、辺りを見渡す。何をしてるんだろうか。
色々な場所をキョロキョロと見回していたが、電柱を見上げる形で視線が止まった。
何事かと見てみれば、鷹が止まってるではないか。「おーい、帰るんだろ?」
千葉なるその人は、鷹を手招きする。
鷹は、電柱から空に舞い上がり、空で旋回するとその人の所へ飛んでくる。
それを確認すると、また俺へ振り向いた。「これから、辛くなるかもしれないが、頑張れよ。俺はリタイアだ」
「え……?」
どう言う意味かが分からなくて、言葉が詰まる。
その間に、鷹はその人の肩へ着地した。「じゃ、もう合わないがまたな」
そして、彼女の時と同じように。
まあ要するに、昨日と同じように、彼はそこから掻き消えたのだった。